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まち歩き 西横堀川

基本的には大阪の川は人間が掘った堀川。堀川には橋がかかる。町人橋でつくった人の想い、歴史があって面白い。水都大坂として川と共に生きてきた大坂は。川そのものが歴史遺産といえる。それが埋め立てられ今では橋跡のみに残すのみです。そこは大坂の中心地、それゆえにそれをつくった人の想い、住んでいた人たちの歴史を皆さんと辿っていきたいと思います。

 

新町橋
寛文12年(1672)、新町の遊郭を繁盛させるため、船場側の通路として西横堀川に新町橋が架けられた。遊郭の中心である瓢箪町筋に通じていたため、「ひょうたん橋」とも称されました。すなわち船場の商人と遊郭を結ぶ橋として。明治59月には橋長12間(21.8メートル)幅2間余(3.6メートル強)の鋳鉄製構アーチの鉄橋に架け替えられた。大阪で2番目の鉄橋である。それだけ重要?だったわけである。心斎橋順慶町から新町橋までは戦前、夜店がたった。 

小倉屋山本
創業は嘉永元年(1848年)の老舗。「をぐら昆布」こと松原久七から暖簾分けを許された初代山本利助が「新町橋小倉屋」として独立。のち「小倉屋山本」と社名を変更し、現在に至る。道南の真昆布のみを使用。山崎豊子は3代目山本利助の実妹。処女作「暖簾」は、生家の小倉屋山本がモデルとなった昆布屋を舞台としている。旧制女専を卒業後、毎日新聞社に入社した。大阪本社調査部を経て1945年(昭和20年)学芸部に勤務する。

 

バッテラ発祥地
明治24年大坂鮨「すし常」片身を開いて船形にしたコノシロ 押しずし 「バッテラ」ポルトガル語で小型艇。コノシロが高価になりサバに切り替え生臭さを消すため昆布を上に載せる現在に形。すし常は現在でも中央市場で営業している。

 

難波神社
四方鳥居と楼門付き拝殿。 境内の東西南北に鳥居があるのは秀吉時代当時、大坂で四方鳥居を許可されたのは、住吉大社とここだけ。また、楼門付きの拝殿を許されたのは、難波神社だけ。それほど特別に扱われた神社だったのです。
秀吉は堺まで市街地にしたかった。そのエリアに難波神社があったために移転。今の地に社地を持っていなかった。移転料2,000石  大阪城 34万坪 上本町にあり八町四方23万坪大坂でも巨大な敷地を持っていた。住吉神社 4町9町 高津宮 6町4方

 

文楽発祥の地
一時期、歌舞伎の人気をしのいでいた人形浄瑠璃だが、竹本・豊竹の両座の没落で急速に衰えていきました。それを蘇生させたのが植村文楽軒で、二代目文楽軒のとき、稲荷神社(難波神社末社)に小屋を構えました(文化81811)。
途中、天保の改革のあおりで中断もありましたが、明治4年(1871)まで続き文楽軒の芝居と呼ばれ、これが今日の「文楽」の名称のもととなりました。境内東門外に「稲荷社文楽座跡」の碑があります。

 

座間神社
かつては淀川南岸の渡辺の地、現在の中央区石町に鎮座していた。現在は御旅所となっており、行宮が鎮座する。神功皇后が三韓征伐より帰還された際、この地に坐摩神を祀ったのが当社の創祀という。延喜式神名帳では、西成郡で唯一の大社であり、摂津国一宮を称する。なお、他に摂津国一宮を称する神社として旧官幣大社・住吉大社がある。鳥居は大小3つの鳥居が横に組み合わさった三鳥居。豊臣秀吉の大阪築城に当たって替え地を命じられ、寛政年間に船場の現社地へ遷座した。境内にある陶器神社はかつて西横堀川に多かった陶器問屋の守護神とされる。

ここは大坂を活動拠点にした中世の武士団 「渡辺党」その渡辺党の本拠地で、渡辺とは「全国渡っていった」という意味の通り、全国多い苗字ランキング5位、100万人以上いる、平安時代嵯峨天皇の十二男、源融の孫の当たる源綱が渡辺綱を名乗り 渡辺党という特殊な武士団を形成、滝口武者、天皇の護衛役、熊野詣の同行など。

 

大阪の歴史イメージ

仁徳天皇陵  難波宮  大坂本願寺 大坂城 豊臣秀吉 大塩平八郎 大大阪

古墳      古代     戦国時代     近世          近代

中世の前半(鎌倉・南北時代}が抜け落ちている

大坂を活動拠点にした中世の武士団 「渡辺党」その渡辺党の本拠地。

渡辺とは「全国渡っていった」という意味の通り、全国多い苗字ランキング5位、100万人以上いる、その発祥地となる。北の太融寺は源融が淳和天皇の時代8町四方の境内  堂山、神山も関連地、

源融(とおる)は嵯峨源氏融流初代。代々この系統は名を1文字で表す。人皇第五十二代嵯峨天皇の第12皇子源融公

紫式部『源氏物語』の主人公光源氏の実在モデルの一人と言われている。

嵯峨源氏の源融の孫で、正式な名のりは源綱(みなもと の つな)。通称は渡辺源次

河内源氏(かわちげんじ)は、河内国(現在の大阪府の一部)に根拠地を置いた清和源氏の一派。一般的に武士で「源氏」という場合、この系統を指す。源頼信は、河内国古市郡壷井(現在の大阪府羽曳野市壷井)を本拠地とし、香炉峰(こうろほう)の館を建てる。本拠地が河内国であることから「河内源氏」と呼ばれる

 

上方落語寄席発祥の地
江戸時代後期、当社境内に上方落語の中興の祖である初代桂文治が初めて開いた咄の席が上方落語の寄席興業の始まりとされる。落語の起源としては、江戸時代中期に、京都の初代露の五郎兵衛や大阪の初代米沢彦八が道端に舞台を設け、自作の噺を披露して銭を稼いだ「辻咄」(つじばなし)や「軽口」(かるくち)と云われている。

 

信濃橋

元は富田町橋、後に問橋と名前を変え、元禄年間(16881704)の記録には信濃橋の名が見える。昭和40年(1965)に地下鉄3号線(四つ橋線)の西梅田~大国町間が開通した際、橋名から信濃橋駅という駅名が付けられ後、中央線本町駅の開業で廃止。

 

御霊神社
津布良彦神 (旧攝津国津村郷の産土神)つぶらしん御霊神社の前身が靭にあったことを記念して、境内に「うつぼの碑」が建てられました。明治17年(1884年)、人形浄瑠璃の劇場「文楽座」が境内に開設。「御霊文楽座」として、文楽二百年の歴史のうちでも、近世文楽における黄金期のにぎわいを見せる。そのため周囲にはうどんすきの「美々卯」などが残っている。

 

京町堀川
京町堀川は、元和3年(1617)に京・伏見から移住してきた町人によって掘られたので、伏見堀とも呼ばれた。京町堀には伏見町人らの商家が多く、京町堀川の両岸には各藩の蔵屋敷、船宿などが並んでいました。昭和36年(1961)に埋め立てられました。

 

呉服橋(伏見呉服町の碑)

豊臣秀吉の大坂築城に際し、天正12年(1584)頃、京・伏見の呉服商人らは玉造に居住させられました。江戸時代になっても伏見呉服町の商人らが大坂城内や蔵屋敷で必要とする呉服の用達をし続け、呉服商人も増えたために玉造の土地が狭くなり、元禄時代に伏見町に移転し、伏見呉服町と称しました。呉服商人や呉服に関係する商人らが居住した呉服町は、各店の暖簾の色が異なり、「呉服町の五色暖簾」として有名でした。西横堀川の東に広がる呉服町につながる橋が呉服橋です。戎橋、大黒橋と呉服(五福)橋を合わせて七福神の橋という酒落もありました。

 

墨屋作兵衛

寛政4年(1792)に亡くなった墨屋作兵衛は、呉服橋の架け替えや修繕費用に充ててもらうために遺産を町内に託しました。墨屋の宅地は町内保管、家屋は町会所となっていましたが、明治に入り、恵美須神社の敷地となり、遺産を使って本殿、拝殿、社務所が新築された。恵美須神社は御霊神社に合祀されましたが、昭和27年(1952)に伏見町の町人の手によって、旧呉服橋乗詰に伏見町呉服町の発展と墨屋の偉業を記した碑が建てられました。町内の発展を思い、寄付をした人も偉いがその功績を未来永劫に残そうとした地元人も偉い。

 

筋違橋(すじかいばし)
「摂津名所図会大成』には、撞木橋(しゅもくばし)の形が尋常でない形であるために架け替え時の普請料が嵩み、江戸堀の川幅を狭めて橋が二つに分けられた経緯が記されています。その際、江戸堀の南北に架けられた橋とは別に、高麗橋筋から江戸堀川南岸へ筋違いに斜めに架けられた橋が筋還橋(すじかいばし)と命名されました。

江戸堀川
元和3年(1617)に開削された江戸堀川沿いに町域が位置してことに由来します。堀川の名称起源は、はっきりしませんが、徳川幕府の統治下に入って最初に掘った堀割を記念して名付けたものと思われます。江戸時代には諸藩の蔵屋敷が立ち並ぶ。

 

 

まち歩き 川口・江之子島

「大阪の文明開化は江之子島、川口から」

 

大阪府庁舎

初代 慶応4年(明治元年)初代の府庁舎は、中央区本町橋の旧大阪西町奉行所に設置していましたが、明治7年(1874)に江之子島に新築移転しました。新庁舎は高さ約30mの2階建て西洋建築でした。大正15年(1926)に現在の大阪市中央区大手前に移転するまで50年以上この地で大阪府政は行われた。

明治初期の大阪は西から発展してゆくと考えられたため、西側、つまり居留地側を正面玄関としていました。新庁舎は明治7年7月はじめに完成し、8日から6日間にわたって一般の参観をゆるしたが、正面玄関に4本の大円柱をならべ、屋上中央のドームに大時計をとりつけた西洋館の庁舎は、たちまち大阪の新名所となり、府民は「江之子島政府」と呼んだ。

 

大阪1889年(明治22年)

大阪府下4区を大阪市とし市制施行、市制特例により市長を置かず、大阪府知事が市長職務を行う。面積:15.27 km²、人口:約46万人

 

天満宮神幸御上陸地碑

天神祭りのメイン行事である船渡御は、戦後の地盤沈下によって船が橋をくぐれなくなったため、今は大川上流に向いますが、明治期から昭和初期までの渡御コースは、大川から堂島川、木津川へと進み、木津川橋下手の江之子島に上陸後、陸路、松島の天満宮行宮の御旅所を目指す船渡御、陸渡御列だったようです。そのまま、松島に泊まった者も多かった。そのため「天神祭の朝帰りと」呼ばれた。

 

大阪市役所江之子島庁舎

マツダのこの場所に明治32年12月初めて市役所が建設された。その後45年に堂島、大正10年位現在の中之島、今の庁舎は4代目となる。

 

木津川橋碑

慶応4年(1868)に架けられました。外国人の居留地が建設された川口と、大阪の行政の中心地だった江之子島を結んだ橋は、大阪と海外を結ぶ架け橋にもなりました。

 

川口居留地

慶応3年に開市され、翌慶応4年(明治元年1868)7月に大阪港が開港して、川口居留地26区画が外国人に競売され即日完売しました。それまで経済の中心地として栄えた大阪に期待を寄せた外面商人たちか殺到しましたが、大阪経済の衰退、港の不整備、厳しい取引監視などで商人たちはすぐに神戸へ移動します。

空家が目立つ居留地の洋館に居住し始めたのがキリスト教の宣教師たちでした。

26区画のうち20区画がキリスト敢闘係の住居・施設となり、居留地はキリスト教伝道の一大拠点になる。

日本聖公会川口基督教会が有名なのだがこの建物も1915年に再建される。

川口キリスト教会は布教活動の一つとして女子教育に力を注いでいて、そして作られたのが平安女学院、プール学院、大阪女学院、桃山学院、立教学院、大阪信愛女学院

 

 

大坂船手会所跡(おおさかふなてかいしょあと)

大坂船手会所は、「出船干膿、入船干腹」と言われる程、船の往来が激しかった大坂湾から木津川・淀川への船舶の出入りや大坂湾に停泊している船舶を管理・掌握する大坂船宇の中心施設。船の管理を実際に行う船番所は、会所の北側と春日出、三軒家の3か所に置かれていた。18世紀代には船手頭が小豆島などの代官を兼ねることもあり、水都・大坂における幕府の重要な役職のひとつだった。ここが戎島の北端川口でした。慶応3年(1867)4月に「兵庫潜井大阪二於テ外国人居留地ヲ定ムル取極」が

幕府と諸外国間に結ばれ、川口に居留地が設けられることとなり、居留地に隣接する地域が内外国人雑居地として選定されました。居留地に選定されるや、「戎」の字が外国人を侮蔑する意味を持つことから、戎島は梅本島と改称されました。

 

安治川橋(磁石橋)

明治6年(1873)居留地の交通の便を図るため、新しく安治川橋が架けられた。

 この橋の中央二径間は西欧から輸入された鉄橋で、高いマストの船が航行する時には、橋桁が旋回する可動橋であった。当時の人々はこの旋回する様を見て「磁石橋」と呼び大阪名物の一つとなった。

 明治18年(1885)大阪を襲った大洪水は多くの大川の橋を流し流木となって安治川橋に押し寄せた。橋はこの流木や洪水に抵抗し、よく耐えたが、市内に洪水の恐れが生じたため、やむなく工兵隊により爆破撤去された。

 

川口基督教会

長崎から川口に移住してきた米国聖公会宣教師C.M.ウイリアムス主教が、明治3(1870)年に英学講義所を開校するとともに、英語による礼拝を行なったのが始まり。その後、同14(1881)年に教会が設立され、大正9(1920)年に現在の礼拝堂が建設された。阪神・淡路大震災では塔が倒れるなど被害を受けたが、現在は修復されている。

 

雑喉場魚市場

この辺りは江戸時代多くの堀川が流れていてさまざまな物資を運ぶ船が行き来していた。そのため昭和の初めまで魚市場があった。

堂島米市場・天満青物市場と並ぶ大坂三大市場のひとつ。もともと上魚屋町(中央区安土町)にあった魚問屋が徐々に集まり魚市場を形成、稚喉場の名前で呼ばれるようになった。規模を広げ、西日本最大の魚市場に発展。大阪中央卸売市場が開場する昭和6(1931)年までその歴史は続いた。

 

阿波堀川跡

阿波堀川は阿波座堀川とも呼ばれ、西区に造られた堀川の中ではもっとも古く、慶長5年(1600)に開削され、西横堀川から分流して西に流れ、百聞堀川に流入していました。

昭和31年(1956)9月、大阪府の防潮堤工事などのため全部埋め立てられました。

 

「大阪の文明開化は江之子島、川口から」

 

大阪府庁舎

初代 慶応4年(明治元年)初代の府庁舎は、中央区本町橋の旧大阪西町奉行所に設置していましたが、明治7年(1874)に江之子島に新築移転しました。新庁舎は高さ約30mの2階建て西洋建築でした。大正15年(1926)に現在の大阪市中央区大手前に移転するまで50年以上この地で大阪府政は行われた。

明治初期の大阪は西から発展してゆくと考えられたため、西側、つまり居留地側を正面玄関としていました。新庁舎は明治7年7月はじめに完成し、8日から6日間にわたって一般の参観をゆるしたが、正面玄関に4本の大円柱をならべ、屋上中央のドームに大時計をとりつけた西洋館の庁舎は、たちまち大阪の新名所となり、府民は「江之子島政府」と呼んだ。

 

大阪1889年(明治22年)

大阪府下4区を大阪市とし市制施行、市制特例により市長を置かず、大阪府知事が市長職務を行う。面積:15.27 km²、人口:約46万人

 

天満宮神幸御上陸地碑

天神祭りのメイン行事である船渡御は、戦後の地盤沈下によって船が橋をくぐれなくなったため、今は大川上流に向いますが、明治期から昭和初期までの渡御コースは、大川から堂島川、木津川へと進み、木津川橋下手の江之子島に上陸後、陸路、松島の天満宮行宮の御旅所を目指す船渡御、陸渡御列だったようです。そのまま、松島に泊まった者も多かった。そのため「天神祭の朝帰りと」呼ばれた。

 

大阪市役所江之子島庁舎

マツダのこの場所に明治32年12月初めて市役所が建設された。その後45年に堂島、大正10年位現在の中之島、今の庁舎は4代目となる。

 

木津川橋碑

慶応4年(1868)に架けられました。外国人の居留地が建設された川口と、大阪の行政の中心地だった江之子島を結んだ橋は、大阪と海外を結ぶ架け橋にもなりました。

 

川口居留地

慶応3年に開市され、翌慶応4年(明治元年1868)7月に大阪港が開港して、川口居留地26区画が外国人に競売され即日完売しました。それまで経済の中心地として栄えた大阪に期待を寄せた外面商人たちか殺到しましたが、大阪経済の衰退、港の不整備、厳しい取引監視などで商人たちはすぐに神戸へ移動します。

空家が目立つ居留地の洋館に居住し始めたのがキリスト教の宣教師たちでした。

26区画のうち20区画がキリスト敢闘係の住居・施設となり、居留地はキリスト教伝道の一大拠点になる。

日本聖公会川口基督教会が有名なのだがこの建物も1915年に再建される。

川口キリスト教会は布教活動の一つとして女子教育に力を注いでいて、そして作られたのが平安女学院、プール学院、大阪女学院、桃山学院、立教学院、大阪信愛女学院

 

 

大坂船手会所跡(おおさかふなてかいしょあと)

大坂船手会所は、「出船干膿、入船干腹」と言われる程、船の往来が激しかった大坂湾から木津川・淀川への船舶の出入りや大坂湾に停泊している船舶を管理・掌握する大坂船宇の中心施設。船の管理を実際に行う船番所は、会所の北側と春日出、三軒家の3か所に置かれていた。18世紀代には船手頭が小豆島などの代官を兼ねることもあり、水都・大坂における幕府の重要な役職のひとつだった。ここが戎島の北端川口でした。慶応3年(1867)4月に「兵庫潜井大阪二於テ外国人居留地ヲ定ムル取極」が

幕府と諸外国間に結ばれ、川口に居留地が設けられることとなり、居留地に隣接する地域が内外国人雑居地として選定されました。居留地に選定されるや、「戎」の字が外国人を侮蔑する意味を持つことから、戎島は梅本島と改称されました。

 

安治川橋(磁石橋)

明治6年(1873)居留地の交通の便を図るため、新しく安治川橋が架けられた。

 この橋の中央二径間は西欧から輸入された鉄橋で、高いマストの船が航行する時には、橋桁が旋回する可動橋であった。当時の人々はこの旋回する様を見て「磁石橋」と呼び大阪名物の一つとなった。

 明治18年(1885)大阪を襲った大洪水は多くの大川の橋を流し流木となって安治川橋に押し寄せた。橋はこの流木や洪水に抵抗し、よく耐えたが、市内に洪水の恐れが生じたため、やむなく工兵隊により爆破撤去された。

 

川口基督教会

長崎から川口に移住してきた米国聖公会宣教師C.M.ウイリアムス主教が、明治3(1870)年に英学講義所を開校するとともに、英語による礼拝を行なったのが始まり。その後、同14(1881)年に教会が設立され、大正9(1920)年に現在の礼拝堂が建設された。阪神・淡路大震災では塔が倒れるなど被害を受けたが、現在は修復されている。

 

雑喉場魚市場

この辺りは江戸時代多くの堀川が流れていてさまざまな物資を運ぶ船が行き来していた。そのため昭和の初めまで魚市場があった。

堂島米市場・天満青物市場と並ぶ大坂三大市場のひとつ。もともと上魚屋町(中央区安土町)にあった魚問屋が徐々に集まり魚市場を形成、稚喉場の名前で呼ばれるようになった。規模を広げ、西日本最大の魚市場に発展。大阪中央卸売市場が開場する昭和6(1931)年までその歴史は続いた。

 

阿波堀川跡

阿波堀川は阿波座堀川とも呼ばれ、西区に造られた堀川の中ではもっとも古く、慶長5年(1600)に開削され、西横堀川から分流して西に流れ、百聞堀川に流入していました。

昭和31年(1956)9月、大阪府の防潮堤工事などのため全部埋め立てられました。

 

まち歩き 江戸堀、京町堀を歩く

時代を先駆けした先賢者たち

 江戸堀・京町堀

元和3年(1617)に開削された江戸堀川沿いに町域が位置してことに由来します。堀川の名称起源は、はっきりしませんが、徳川幕府の統治下に入って最初に掘った堀割を記念して名付けたものと思われます。江戸時代には諸藩の蔵屋敷が立ち並び、舟運にも良く利用されていました。

 

①筋違橋(すじかいばし)

「摂津名所図会大成』には、撞木橋(しゅもくばし)の形が尋常でない形であるために架け替え時の普請料が嵩み、江戸堀の川幅を狭めて橋が2つに分けられた経緯が記されています。その際、江戸堀川の南北に架けられた橋とは別に、高麗橋筋から江戸堀川南岸へ筋違いに斜めに架けられた橋が筋還橋(すじかいばし)と命名されました。

明暦3年(1657)の古地図にはすでに2橋になっておりT字形、撞木の橋は、ごく限られた時期にしか存在しなかったと考えられる。

 

②頼山陽生誕地

頼山陽は江戸時代後期の歴史家・漢詩人・文人です。頼山陽は、安永(あんえい)9年(1780)12月、父春水(しゆんすい)が開いていた私塾青山社で生まれた。生家は江戸堀川に面し、住宅の半分が川面に突き出た形になっており、藤や盆栽のある風流な眺めで有名であった。文政10 年(1827)『日本外史』を著述し、幕末の勤皇思想に大きな影響を与えたが江戸に遊学後の寛政12年(1800)、突如、脱藩を企て失敗して、廃嫡のうえ自宅へ幽閉されますが、そこから源平、南北朝から徳川時代までの武家の栄枯盛衰を書いた歴史書『日本外史』を執筆しはじめます。その後、京都で塾を開き、文政9年(1826)に『日本外史』を完成、老中・松平定信に献上しました。陽明学者として大塩平八郎にも大きな影響を与えましたが、没後出版された『日本外史』は幕末の大ベストセラーとなり、尊皇攘夷運動に大きな影響を与えました。

 

③大阪基督教団大阪教会

米国宣教師ゴルドン氏の伝道で明治7年(1874)、西区に創立された梅本町公会が前身です。平成16年(2004)には創立130周年を迎えた、日本最古級のプロテスタント教会です。現教会堂は近江兄弟社の創立者で、熱心なクリスチャンであつたアメリカ人建築家ヴオーリズの設計で、大正11年(1922)に建造されました。ロマネスク様式のクラシックな赤レンガ建築で、重厚なアーチや尖塔、切妻屋根、美しいバラ窓(円形飾り窓)など数多くの見所があります。平成7年(1995)の阪神・淡路大震災で半壊しましたが、8ケ月に亙る復興工事の末、見事、復興しました。平成8年(1996)には国の登録文化財となっています。

 

④先賢景仰碑

西船場小学校は昭和18年(1943)に東江小学校を改称したものです。旧名の「東江」は、東江戸堀という意味で、この地には江戸時代以来多くの先覚者・学者・文化人らが生まれました。そこで昭和10年(1935)10月、東江小学校創設50周年を記念して校庭に建てられたのがこの顕彰碑です。西区周辺では、学者や知識人が多く集まったり、生まれたりして文化や学問がさかんだったことを記念して、偉大な昔の人や偉大なものを敬い慕うという意味の、「先賢景迎碑」を建てたそうです。

藤沢章の撰文には、頼山陽・篠崎三島・同小竹・後藤松陰・並河寒泉・武内確斎・広瀬筑梁・河野恕斎・春田横塘・金本摩斎・新興蒙所・尾崎南竜・下河辺長流・江田世恭・鶴峰戊申・萩原広道・森周峰・墨江武禅・長山孔直・耳鳥斎・半時庵淡々・椎本才麿・暁鐘成・岩永盤完・斎藤方策・亀山貞介・浄光寺苦行・佐伯覚灯・村山竜平・宮川経輝らの名が挙げられています。

 

⑤大村益次郎寓居跡

大村益次郎(1824~1869)は、儒学・蘭学・医学・西洋兵学に通じた幕末の軍政家です。弘化3年(1846)、23歳のときに大坂に出て、緒方洪庵の適塾で学び、一時期は大坂を離れて長崎に学びますが、嘉永元年(1848)に再び適塾に戻りました。極めて優秀な塾生で、嘉永2年(1849)には塾頭となっています。当初は塾に寄宿していましたが、江戸堀の倉敷屋作衛門の屋敷に下宿するようになり、その下宿跡に建てられたのが当碑です。高杉晋作の奇兵隊を指導して、長州征討や戊辰戦争では、長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となりました。明治新政府の兵部省初代の大輔(たいふ)を務め、「近代日本陸軍の父」と呼ばれています。しかし明治2年(1869)に京都で国民皆兵反対派の刺客に襲われ、大阪病院に入院して右脚切断の大手術をしましたが成功せず、46歳で没しました。

 

⑥薩摩藩蔵屋敷跡

西区の東北部一帯は、江戸時代には河川を利用した交通の便がよかったため、中之島や堂島と向じく、諸藩の蔵屋敷が集中していました。当地には薩摩鹿児島藩(島津氏77万石)の蔵屋敷があって、ここには薩摩堀川を開削した薩摩屋仁兵衛が、代々、天満組惣年寄を務めるとともに蔵屋敷に付属して、薩摩定問屋として活躍していました。明治元年(1868)正月、鳥羽伏見の戦いで、幕府から蔵屋敷の引渡しを要求され、これを拒絶したため、陸奥会津藩兵が攻撃してくることを聞いて、自ら火を放って焼失しました。

 

⑦大阪上等裁判所跡

上等裁判所は、明治5年(1872)の司法省官制による臨時・司法・出張・府県・区の5種の裁判所のうち、司法裁判所を改称したもので、明治8年(1875)、大阪・東京・長崎・福島の4ケ所に設置されました。大阪上等裁判所は当初は西道頓堀1丁目の旧金沢邸に開庁しましたが、翌年、土佐堀へ移転しました。管轄区域は、大阪・京都両府のほか、敦賀・滋賀・石川・度会・奈良・和歌山・堺・兵庫・飾磨・岡山・北条・鳥取・豊岡・名乗・高知・愛媛・小田・島根・浜田・広島・山口の諸県に及びました。「明治天皇聖濁・上等裁判所址」の碑は、大正14年(1925)5月、大阪市青年連合団が建てたものです。

 

⑧宮武外骨ゆかりの地碑

宮武外骨(1867~1955)は、幼名を亀四郎といい、「亀」が外骨内肉の生き物であることに因んで、明治17年(1884)に外骨と改名しました。公権力に対して反骨の精神を貫き、入獄4回罰金・発禁などは29回にも及びました。当初は東京で活躍し、『頓知協会雑誌』などを刊行して、政府や行政の腐敗を攻撃しましたが、明治33年(1900)に大阪へ移り、生地の香川県小野村をもじった小野村夫の名前で、行政の腐敗を面白おかしく記事にした『滑稽新聞』を発行。滑稽新聞社は刊行当初は京町堀通4丁目でしたが、明治35年(1902)に江戸堀南通4丁目に移転しました。『滑稽新聞』は毎月5日と15日の2回発行され、明治42年(1909)の173号を最後に廃刊となりました。外骨は、乗京帝国大学内に明治雑誌新聞文庫を創設するなど、書誌収集の面でも大きな功績を残しています。

 

⑨江戸堀川の碑

 

⑩泥の河

昭和30年代の土佐堀川と堂島川が合流するところ。それこそ泥の河状態の場所。

日本が高度成長期を迎えようとしていた昭和31年。大阪・安治川の河口で食堂を営む板倉晋平の息子・信雄は、ある日、対岸に繋がれているみすぼらしい船に住む姉弟と知り合う。その船には夜近づいちゃいけないと父からは言われていた……。廓船の喜一と銀子の兄弟との交流。声だけで姿を全く見せない喜一の母親役の加賀まりこさん。原作は芥川賞作家・宮本輝の出世作である。田村高廣 藤田弓子 やなぎや食堂は現白い建物

 

⑪関西法律学校発祥の地

関西法律学校は、明治19年(1886)、当時の大阪控訴院長であった児島惟謙(のち大審院院)らの賛成を得て、この地にあった願宗寺内に創立されました。創立当時は児島のほか大阪始事裁判所長の大島貞敏、および土居通夫(のち大阪商業会議所会頭)らが名誉校員でした。現在の関西大学の前身になります。

 

⑫中天游寓居跡

江戸時代の蘭学者・中天游の寓居跡です。中天游は江戸の大槻玄沢、京都の海上随鴎といった当代一流の蘭学者から教えをうけ、文化14年(1817)、35歳のときに大坂に移住しました。医術の心得があつたため、女医者として評判のよかった妻のさだとともに医業を開くも、医業よりも蘭学に熱心で、橋本宗吉の絲漢堂に出入りしながら、私塾・思々斎塾を開き、子弟の教育につとめました。この思々斎塾で、緒方洪庵も塾生として4年間、天游に教えをうけました。

 

⑬此花乃井

花乃井中学校の校庭は、江戸時代に石見津和野藩(亀井氏・4万3千石)の蔵屋敷があったところで、屋敷内の井戸は大坂では珍しく良質の飲料水でした。慶応4年(1868)に明治天皇が大坂北御堂を行在所としたさいには、この井戸水を用水に供したことから、「此花乃井」の名が与えられて、以来、通称「花乃井」と呼ばれて、大阪の名水として評判となりました。明治42年(1909)5月に、有志によって「此花乃井」の碑が建てられ、昭和15年(1940)11月、この名水を永く保存するため、江戸堀町会連合会により、さらに石碑が1基建てられました。校名は通称の「花乃井」からとられたものです。

花乃井橋

花乃井橋は堂島大橋から芦原橋聞の市電開通に際し、大正9年(1920)に江戸堀川の第6橋として架けられたもので、当時の橋柱が残されています。

 

⑭京町堀川跡碑

京町堀川は、元和3年(1617)に京・伏見から移住してきた町人によって掘られたので、伏見堀とも呼ばれました。京町堀には伏見町人らの商家が多く、京町堀川の両岸には各藩の蔵屋敷、船宿などが並んでいました。京町堀川は、西横堀川から分流した長さ約1,080m、幅約30mの川で、海部堀川と合流し、百聞堀川こ注ぎ、物資の運搬などに利用されました。昭和36年(1961)に防波堤工事のために埋め立てられました。

 

「泥の河」  原作 宮本 輝

 

1977年(昭和52年) 第13回太宰治賞第13回太宰治賞を受賞し作家デビューしている。1981年に小栗康平監督により自主制作の形で映画化された

 

 

監督:小栗康平 田村高廣 藤田弓子 加賀まりこ ほか

 

あらすじ

まだ戦後の焼け跡の匂いを残す河っぷちで、食堂を営む家族がある。

その一人息子である9歳の信雄(朝原)は、ある雨の早朝、橋の上で鉄くずを盗もうとする少年、喜一(桜井)に出会った。

雨に煙る対岸に、その日つながれた、みすぼらしい宿船の少年である。

舟の家には銀子(柴田)という11歳の優しい姉と、板壁の向こうで声だけがする姿の見えない母がいた。

友達になったことを父、晋平(田村)に話すと、夜はあの舟に行ってはいけないという。

窓から見える船の家が信雄を魅惑し不安にする。

子供達の交流が深まり始めたある日、終戦直後に別れた晋平のかつての女房の病変の知らせが届く。

不可解な人生の断面が信雄に成長を促していく。

楽しみにしていた天神祭りの日、お金を落としたことでしょげ返る信雄を慰めようと喜一は、夜、舟の家に誘った。

泥の河に突き刺した竹箒に蟹の巣があり、喜一はその宝物である蟹にランプの油をたらし、火をつけて遊ぶのである。

船べりを逃げる蟹を追った時、信雄は喜一の母の姿を見た。

舟は廓舟と呼ばれていたのである。

翌日、舟の家は岸を離れた。

信雄は曳かれていく喜一の舟を追い続けて、初めて生きることの悲しみを自らの人生に結びつける。

 

まち歩き 西長堀川

今はなき西長堀川をたどり西区の歴史を想う

「今なき西長堀川をたどり西区の歴史を想う」キーワード

 

・石ならお任せ

・大卒初任給の1.4倍

・アッと驚くインサイダー商法

・大坂は日本のスポンサー

・ビジネスの基本

・昔も今もアイデア次第

・町民文化此処にあり

・丸を伸ばして細く切ると・・・

・世にも珍しい

 

①細野ビルヂング(ほその)

細野ビルヂングは細野濱吉氏が創業した建設会社「細野組営業部として昭和11年に竣工した。細野組は明治時代、大阪市から大阪築港や御堂筋の工事を請け負い、芦屋六麓荘の総合開発、芦屋学園の創立などを手がけ商都大阪の完成に尽力した。ビルの竣工当時は石材請負業も行っていたため、上質の石材がふんだんに使われているのも特徴だ。細野組三代目オーナーの細野房雄さんは1999年よりビルの修復を始め、築後66年目の2003年には記念イベント「66展」を細野ビルヂングで開催した。以後、数多くの個展やイベント、コンサートにビルは広く利用されている。

 

②鰹座橋交差点(かつおざばし)

鰹座橋は元和8年(1622)の長堀川開削から明暦元年(1655)までの間に架設されたと考えられています。鰹節を売買する鰹座があったことが橋名の由来で、また土佐殿橋とも呼ばれました。江戸時代は鰹座橋と玉造橋の間に土佐藩大坂蔵屋敷があり、土佐廻船によって鰹節を始めとする海産物、材木などが大量に水揚げされ、盛況を極めました。

 

③西長堀団地

東京都に造成された晴海団地高層アパートと並び、日本住宅公団による都市型高層住宅の第1号で1958(昭和33年)に高層住宅の試金石としてこの西長堀アパートを建設した。外壁には無数の小窓が整然と並び、オフィスビルを思わせる外観となっている。初期の家賃は2DKで16,500円であり、当時の大卒初任給の1.4倍であった。この住宅には著名人の居住も多く、司馬遼太郎、森光子、野村克也や石浜恒夫などが居住していた。完成時高さも、家賃も大阪一番高い。

 

④土佐稲荷神社(三菱発祥の地 岩崎家旧邸跡)

かつては土佐藩蔵屋敷があり、米穀、材木、鰹節、和紙、砂糖など土佐の特産物が扱われました。古くから屋敷内に稲荷社がありましたが、享保2年(1717)に藩主・山内豊隆が社殿を造営。江戸時代より桜の名所として有名となる。

明治2年(1869)、岩崎弥太郎が土佐藩のお手先商法である「開成館貨殖局大阪出張所」の幹事心得となり、大阪事務所を指揮して汽船・武器の輸入に活躍。翌年、廃藩置県が行われるとの情報で後藤象二郎、板垣退助らと協議して長堀川北岸に事務所を置き、藩から独立した九十九商会を設立、後藤象二郎の肝煎りで土佐藩の負債を肩代わりする条件で船3隻を入手して海運業を始めました。廃藩置県後、一旦、三川商会となり、明治6年(1873)3月、三萎商会と改称。これが三井、住友と並ぶ日本三大財閥のひとつ、三菱財閥の起こりです。土佐稲荷神社は三菱発祥の地で、弥太郎は、土佐藩主・山内家の三ツ相紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を合わせて社章(スリータイヤ)を作りましたが、土佐稲荷神社の神紋の中にもスリータイヤが入っています。岩崎弥太郎邸宅跡の碑があり、神社を囲む玉垣なども三菱系列の会社が寄進しています。また第12代横綱・陣幕久五郎が寄進した狛狐、土佐藩主寄進の灯籠、の岩崎彌之助寄進の狛犬等現存しています。

 

⑤木村 蒹葭堂(きむら けんかどう)

江戸時代中期の、元文元年(1736)11月28日生まれ。造り酒屋と仕舞多屋を兼ねる商家の長子として生まれる。近年「浪速の知の巨人」と称され評価が高いが、事実、本草学、文学、物産学に通じ、黄檗禅に精通し、出版に携わり、オランダ語を得意とし、ラテン語を解し、書画や煎茶、篆刻を嗜むなど極めて博学多才の人であった。 また書画・骨董・書籍・地図・鉱物標本・動植物標本・器物などの大コレクターとしても当時から有名であり、その知識や収蔵品を求めて諸国から様々な文化人が彼の元に訪れた。人々の往来を記録した『蒹葭堂日記』には延べ9万人の来訪者が著されている。幅広い交友が生まれ、個人としては最大の知のネットワーカーとなり、当時の一大文化サロンの主となった。 

 

⑥あみだ池大黒

文化2年(1805)創業。長堀川畔には西国大名らの蔵屋敷が建ち並び、年貢米を運んできた船が数多く停泊していました。あみだ池大黒の初代・小林林之助氏は、その船底にたまる余剰米に目をつけて、おこしの原料にすることを思いつきました。日露戦争時には、明治天皇より戦地への慰問品として送られる恩賜の菓子として阿弥陀池大黒のおこしが選ばれ、3代目・小林利昌氏は不眠不休で生産に励んで35万箱を3ケ月の納期内に完納しました。おこしは兵隊達の人気を博し、昭和20年(1945)まで宮内省御用達となります。全国各地から集められた約3500体の大黒様を集めた蔵は、第2次大戦の戦火でも焼け残る。

 

⑦和光寺(あみだ池)

阿弥陀池は古代からあって、霊水が湧く有難い池で、廃仏派の物部氏によって池に投げ捨てられた阿弥陀如来が、推古天皇10年(602)に信濃の住人・本田善光に拾われて善光寺まで運ばれたという言い伝えがあります。元禄11年(1698)、堀江川が開削され、堀江新地の区画整理が始まると、翌年、長野・善光寺から智幸上人を迎えて、阿弥陀池のほとりに和光寺を建て、善光寺本堂に安置されていた阿弥陀仏を本尊としてお祀りしました。境内及び周辺には講釈の寄席、浄瑠璃の席、軽業の見世物などが並び、2月の浬欒会、4月の仏生会の植木市は、賑やかであったといいます。

 

⑧白髪橋(しらがばし)

鰹座橋と同じく、元和8年(1622)から明暦元年(1655)までの間に架設されたと考えられています。橋名の由来は、新羅船がここに着岸して、後世、それが靴って白髪町・白髪橋となった説(「摂津名所図会大成」)や、土佐藩が自国の白髪山から木材を伐出して、当地に材木市場を設けたのが由来とする説(「西区史」)などがあります。江戸時代には阿弥陀池の和光寺と、寺の東側に繁昌した16軒の水茶屋への参詣遊山の人で賑わったといいます。

 

⑨大阪木材市売市場発祥の地

元和8年(1622)頃、土佐藩の申請で材木市が立売堀川で始まり、土佐藩が蔵屋敷を白髪町にかまえると、西長堀川でも材木市が許可されて、土佐、日向、紀州、阿波、尾張など諸国の材木が集まり、西長堀橋南詰から富田屋橋,問屋橋.白髪橋にかけて浜側は、昭和にいたるまで年中、材木市が開かれました。戦後、水質汚染が進み、舟運利用が減少したため、西長堀川は埋め立てられましたが、今でも堀江界隈を丹念に探索すると、材木商の看板などが点在しています。

 

⑩間長涯(はざまちょうがい)天文観測の地

間長涯(1756~1816)は江戸中期の暦学者・天文学者です。家は長堀の質屋で麻田剛立から天文学を学び、師の剛立から推薦されて、江戸に行って寛政9年(1797)に、寛政暦を完成。その功で幕府から直参取り立ての話が出ましたが、これを辞退して大坂に帰る。大坂では英国製の観測器具、技術を研究して、富田屋橋で天体観測に従事。長涯が橋中で観測を始めると、町民が通行をとめたといいます。卓越した観測技術は弟子の伊能忠敬にも伝えられ、日本地図作成に大いに役立つ。碑は長堀川ほとりに建てられましたが、そのご分離帯に移される。

 

⑪「ここに砂場ありき」石碑

豊臣秀吉が大坂城を築城したさいに、大坂市中各地に資材置き場が設けられましたが、新町には砂類の蓄積場がありました。工事関係者が多く集まり、その人々に麺類を提供する店「いずみや」「津の国屋」などが開業したと古文書にあります(天正12年・1584)。石碑は、本邦麺類店発祥の地であるとして、大阪のそば店誕生400年を祝う会が建立したものです。

 

⑫「改良演劇発祥の地」石碑

かつて新町南公園の北側に新町演舞場がありました。新町廓の芸妓たちが踊りを披露した舞台で、春になると「浪花踊」が上演され、大阪に春の訪れを告げました。戦災後、演舞場は書籍取次業の大阪屋となり、社屋一部に演舞場の外観がそのまま残されていた。この新町演舞場は新町座といい、明治21年(1888)、俳優の角藤定憲が「大日本壮士改良演劇会」の旗揚げ公演を挙行し、西日本各地を巡演しました。自由民権運動に影響された政治批判の壮士芝居で、これに刺激されて川上音二郎のオッペケベー節などが生まれてきます。改良演劇発祥の地として、新町南公園内に石碑があります。

 

⑬四ツ橋

四ツ橋は、長堀川・西横堀川に架かっていた炭屋橋・吉野屋橋・上繋橋(かみつなぎばし)・下繋橋の総称です。2つの川に4つの橋が東西南北に交差して井桁状に架かっている珍しさから、浪花随一の名所でした。「摂津名所図会大成」によると「此地の名物として爛管店軒をならべ、種々様々の形せし品ありて、買手の望みに任す」とあり、「四ツ橋煙管」が名産だったことがわかります。天保8年(1837)には追われた大塩平八郎父子が船で逃走中に、四ツ橋の下で刃を河中に投げ捨てたといいます。また昭和12年(1937)には、四ツ橋北西角に東洋初のプラネタリウムが置かれた大阪市立電気科学館が誕生。少年時代の手塚治虫が足繁く通って、後年、「鉄腕アトム」などのSF漫画を作るさいに大いにイメージを活用したそうです。

小西來山の「涼しさに 四つ橋を四つ わたりけり」。上島鬼貫の「後の月 入て貌よし星の空」の句碑が建てられています。